「行為ではなく、存在」
行為の弊害
おそらく自分は「価値」というものにすごく興味があるし、頭のどこかでいつも考えているように思います。
コロナ禍の中で歴史を学ぶようになってきて、改めて短期的なミクロな視点ではなく、長期的なマクロな視点で物事を考えることが大切だと思わされる日々です。
本屋のビジネス書を見に行くと
「天職というのは〜」
「個人の能力とは〜」
「仕事ができるとは〜」
「社会に役立つ人材とは〜」
…などの本が多数有り、社会において転職や就職する時に「自分の人材市場においての価値とは」という”商品”として自分を見なければいけない、という感覚に陥りますね。
常に成果を求められる短期的な影響を会社や社会に与えるのが良いという考えです。
このフレームワークで物事を考えることで「果たして自分に価値があるんだろうか」と考えちゃうのも仕方ないように思えてきました。
自分もそうでした。
サッカーチームを率いている時は短期的に結果を出さなきゃいけない環境の日々でした。もちろん刺激的で楽しかったですが、その分消耗も激しかったのも事実です。
さらにその無限ループにハマると、成長するために資格を獲得したり、職業的スキルを持つことだけで「自分って価値ある!」と思うようになります。
でも、本当にこのフレームワークの中での行為って意味があるんでしょうか。
『短期的なものを評価するのはいいけど、短期的な影響だけでなくて、人間とか社会には、長期的な影響というのがある。
しかも長期的な影響というのはあまり行為からは生まれなくて、「こういう人間がいた」というその存在を認知されることが影響になったりもする。
歴史を勉強してわかった面白い現象だね。キリストとかガンディーとか、まさにそう。』
歴史データベースを作成している深井龍之介さんのコメントをラジオで聴いていてすごく納得しました。ああ、これだって。
短期的な行為で人や社会に対して自分が役に立っているかというのはとても分かりずらいものです。(分かりやすいかもしれませんが、時間が経つとまた役に立ってないと思ってしまい、短期的な行為を始めるというループ)
ちなみに余談として会社にとって役に立つことと、個人として誰かの役に立つことはまた別の話なのに、そこをイコールで考えてしまうことが世の中を「生きづらくなる原因」なんじゃないかとも思ったりします。
存在として
この2ヶ月ほど歴史を学んでいくと、別に生きている間にそんなに偉大なことをしてないのに、社会的な影響度合いが大きい現象が起こることがあります。
このトピックが現代にとても大切な気がしてます。というが自分はそう思います。
なぜなら今の時代だけを生きていると解釈がとても分かりづらい気がします。視点が一つしかないし、時代背景を読み取ったり、相対的に物事を見たり、歴史を勉強しない限りは分からないことだらけです。(それでも分からないことだらけですが、視点や視野が広がることあります。)
世の中で成果を求められます。
競争社会、資本主義なので、何をアクションしたかとかどういうことを社会的に短期的に達成したかとか、そういうことを評価軸に置かれてます。特にリモートワークで可視化されましたね。
もちろん、当たり前ですがとても大事です。
そういう行為で短期的に影響を与えることはとても重要だと思いますが、人間や社会には長期的な影響というものがあります。
そして、長期的な影響というのは行為からは生まれてこなくて、こういう人間がいた!ってという存在の認知から始まり、それが影響になるのです。
自分が最近、歴史を面白いと思い始めたのはここの部分です。イエスキリスト、吉田松陰、孔子、始皇帝、ガンディーなどは行為ではなく存在で影響を与えました。その方達は将軍などの行為よりも大きな影響を与えていますよね。
自分自身に置き換えても、影響を受ける時は行為ではなく、存在だったりします。
サッカー指導者にはこういう人がいるんだ!という存在を知ることで、学びになることがものすごく多い気がします。どういう練習方法とか、仕組みなどよりも圧倒的に人から影響をもらいます。何かの行為を教えてもらったり、スキルを習得することよりも、知らない方の存在を知ることの方が本質的には自分自身の勉強になっています。
長期的にみると、1番勉強になっているのはやっぱり「存在」だったりします。
イエスキリストとかガンディーみたいな超絶すごい人だけではなく、身近な人間でさえも行為してなくて、存在していることによって影響を与えていることを感じていて、結局のところ何もしてなくても生きているだけで影響を与えているんだなぁと思います。