サッカーを手放して、ようやく「自分」に出会えた話
20年以上、人生の真ん中にはいつもサッカーがあった。けれど、サッカーから離れて2年が経つ今、驚くほど「またやりたい」という気持ちが湧いてこない。
あんなに執着し、人生のすべてを捧げていたのに、なぜだろう。
最近ようやく、その答えが見えてきた。
これは、一つの大きな「執着」を手放し、本当の自分を見つけるまでの記録だ。
終わりのない努力と、プロへの固執
小学校から高校まで、頭の中はサッカーで一杯だった。中学時代、部活を「楽しむもの」として捉える周囲との温度差がどうしても許せなかった。一人クラブチームに通い、人の何倍も練習に打ち込んだ。高校も、プロになるためにあえて地元を離れ、厳しい環境に身を置いた。
「プロになる」ことだけが、自分の正義だった。
しかし、高校3年生。その夢は断たれた。
周りが次々と「引退」という区切りをつけていく中、自分だけがその現実に追いつけず、行き場のない悔しさをずっと抱えていた。技術的にプロは無理だという事実は、自分が一番よくわかっている。けれど、心がどうしても、サッカーを終わらせてはくれなかった。
「誰かのために」という名の鎧(よろい)
大学から始まった指導者の道。最初はボランティアだったが、気づけば本業として、小学生から社会人、女子サッカーまで、あらゆる現場でコーチや監督を務めるようになっていた。
震災後の女川へ毎年足を運び、フリースクールでの活動も通して、自分の中に一つの強い理念が生まれた。
「サッカーを通して、一人ひとりに価値があることを伝えたい」
「サッカーを、誰かの居場所(サードプレイス)にしたい」
当時は、これが自分の使命だと信じて疑わなかった。サッカーを通して社会に貢献している自分。誰かのために必死になれる自分。そう思えることが、自分を保つ支えだった。
「Doing」から「Being」へ
転機は、突然やってきたコロナ禍だった。
活動がストップし、強制的に自分と向き合う時間ができたこと。そして、家族が増え、子供を授かったこと。
それまでは「何をするか(Doing)」ばかりを追い求めていたが、自分はどうあるべきか、という「あり方(Being)」に目が向くようになった。
そんなタイミングで、実家の模型屋を営む両親から「手伝ってほしい」という願いを聞いた。ずっとわがままにサッカーをさせてくれた両親に、何か恩返しをしたい。その想いが、あれほど固執していたサッカーのキャリアを手放す決定打となった。
惨めさを、愛おしさに変える
サッカーを辞めて2年。「またやりたい」という気持ちが全く湧いてこない。なぜ、あんなに必死にコーチとして「誰かの役に立ちたい」と走り回っていたのか。それがなんとなく最近分かってきた。
それは「プロになれなかった惨めさや弱さを、払拭したかったから」だったのだ。
立派な理念を掲げ、誰かのために尽くすことで、夢に破れた自分、プロになれなかった自分という「欠陥」を埋めようとしていた。誰かのために、と言いながら、実は自分自身の傷を癒やすためにサッカーにしがみついていただけだったのだ。
でも、その「惨めさ」を認めた瞬間、ふっと体が軽くなった。
何かを手放すということは、同時に新しい何かを得るということだ。
サッカーという巨大な軸を手放したことで、ようやく鎧を着ていない「等身大の自分」として呼吸ができるようになった。
30代前半まで続いたサッカー人生。今はもう、ピッチに立ちたいとも、コーチングをしたいとも思わない。けれど、あの時プロになれず、惨めさと戦いながら必死に足掻いた日々は、決して無駄な遠回りではなかった。そのすべての経験が、今の自分を形作るかけがえのないピース(欠片)となっている。
サッカーという大きな軸を手放した今、自分の視界には、実家の模型屋で向き合う繊細な手仕事や、家にいる子供達と妻の笑顔、そして何者でもない「自分自身」を肯定できる穏やかな時間が広がっている。
手放したからこそ、今ようやく本当の自分の人生を歩み始めた。
あいまいの大切さ
本題の前に
意味のないものを書き続けるモチベーションが下がってしまい、ブログを怠ってしまいました。しかし、意味が「ある」か「ない」かは受け取る側の問題であるという言葉を見つけてなるほどと思い再度書こうと思いました。
そもそも、頭の思考をアウトプットしないと新たな思考が生まれにくく、この感覚は身体を洗う感じだったり、ルーティン作りと同じなんですよね。また、不定期に(頑張って週に1度)つらつら綴ります。
評価しないこと
20代は正しさより楽しさと言い続けてきましたが、ここ最近はハッキリとした定義づけではなく「あいまい」を大切にしています。それは物事に対しての正しいとか間違っているとかの端的な時間で評価をしないことを意味しています。楽しいとか辛いとかの感情だけに囚われないこと。思考と自我と感情を別にすること。分けることで仕事・家庭・プライベートでの自分が成立しています。
価値の基準
仕事での価値は「数字」であり、家庭での価値は「時間」であり、プライベートでの価値は「学び」という感じで分けることで思考と感情も変化します。
全て一つの評価軸での物差しでみると自己嫌悪に落ちる傾向にあります。例えば"仕事は出来ても家庭で居場所がない"みたいな感覚です。
そもそも仕事での思考と家庭での思考は違う(価値が違うから)ので、使い分けがとても大切だと実感しています。
"居心地が悪い"と感じるのは他者から(そのコミュニティ内)評価されるからですよね。初めは楽しいで始めたモノ・コトも次第に評価対象や評価基準になっていく(楽しいからプールをやったのに次第に段をとらないと…みたいな)ので、居心地が悪くなります。
バガボンドの「殺し合いの螺旋から降りる」という表現はまさに!という感覚です。

この時代は天下無双という1つの目標にみんなが向かいます。他者に勝ち続ける限り、誰かを蹴落とし続け、それと同時に自分が狙われ続けなければなりません。これは私達現代人も、このような斬り合いこそないですが、同じように毎日が勝負の世界…生きるか死ぬかの世界に生きています。勝ち負けやどちらが上か?下か?といった螺旋。どちらが勝つか?負けるか?どちらがきれいか?醜いか?どちらが金を持っているか?貧しいか?どちらが頭がいいか?悪いか?等々…。
ただ、この螺旋から降りずに生きていく手段を見つけました。それは螺旋を増やすことです。
あいまいの本質
評価軸が1つしかないと結局、いつかは疲弊していきます。だから今自分は「あいまい」を大切にしています。自分の中のあいまいの定義は「評価されにくい」ということです。
一つの評価軸だけではなく、様々な評価軸を組み合わせていくことで価値が変化していくことです。例えば100万人の中で1位を目指すのではなく、100人の中で1位を目指すジャンルを3つ掛け合わせていけば100万人の中で1位の価値に出来ますよね。
このように様々なジャンルを掛け合わせていくことで、簡単に評価されにくい人物になるのではないかと思考しています。
一個に絞ってどこまでいくか。という考えの原点は「教育」だと思います。(悪いとは言ってません。) 例えば、昔は部活の掛け持ちなんてできなかったですし、学校の先生に子どもの時に夢はなんですか?って言われて5個以上夢を書き出したら1個にしなさいって言われたような気がします。
しかし、今副業時代とも言われていて、ビジネスも一個に絞らなくても良い時代になっていています。何かを成し遂げて他者から評価されるよりも、自分自身の基準・評価の中での充実感を大切にしていくことのほうが人生豊かになるのではと思う今日この頃です。
ではでは。

学びの1年
1歳
今月で娘が1歳になります。生まれてから1年は長いようであっという間でした。この1年で感じるのは「尊い」ということです。
当たり前ですが、娘はまだ一人でご飯は
食べられません。おむつも替えられませんし、会話も出来ませんし、歩けません(今練習に励んでますが)。毎日の娘の成長に合わせて夫婦で試行錯誤していくことで疲弊感はありますが、それ以上に成長してくれる喜びと尊さを感じます。
自分が1歳の時の記憶などほとんどありませんが(当たり前か)、この儚い自分の命を両親が大切に育ててくれたということに、父親となったことで深く感謝できます。また「子どもに期待するのは健康的に育って、親より長生きしてもらうことだけだよ」という両親の言葉の意味は、今なら深く理解することができます。
こういったことに気付くのは、実際に自分が親になってみないと分からないことなんでしょうかね。…と仕事で関わっている子どもたちを見て思います。笑
父親1歳
この1年は人間としても成長できたのではないかと思っています。思考、立ち振る舞い、ライフスタイルなど変化しないといけない環境の中で生きていくことで学ばされました。
ただ、子育てはとても楽しいけれども、なかなか落ち着きません。娘のことはもちろん、妻のコンディションも日々変化していくので心配し過ぎてしまいます。
日々の生活のなかで、自分はどういう工夫をしたら良いのか?という問いをいつも解いていた1年でした。(父親になり、もっとも考えた部分)
考え過ぎて正直、家が居場所でなくなる感覚もありました。ただ、自分自身と向き合わず現状に納得することも可能でしたが、そうはなりたくありませんでした。妻も、娘も、自分も、安心安全の家で在りたい。そう考え突き詰めると居場所ではなく、居心地を考えるようになりました。(身体ではなく、心)
何を感じたか
居場所がないと実感したのは「何かをしなければいけない」というTO DO思考が原因でした。育児においても、仕事においても、○○をしないと、○○をやらないと…という終わらない行為に不安と時には孤独を感じることが多かったです。思考の転換が必要だと思い、居場所ではなく、居心地を良くするためにはどうしたら良いかと考えることが変化しました。
1日の最後(仕事終わり、育児終わり)に明日は○○をしないととか考えることを一切やめにしました。それよりも自分は今日どう感じたのかを振り返ることを徹底しました。これがTO FEEL思考です。

何をしたのか、ではなく何を感じたのか。それを自分自身でメンテナンスし、たまには妻と分かち合うだけですごく家の居心地がよく感じるようになりました。
コロナ禍
コロナ禍で外出することが大きく減りましたが、家の居心地を探求した結果ほぼストレスはなくなりました。自分が安心することが何よりも大切なんだと気付きましたし、娘や妻の変化にも気付くようになりました。
これからも変化していくことを怖がらず、父親2年目も一歩一歩「前だけ」を見ていきます。

ありのままでいいなんて嘘
演じる
自分が思っていることと他者が自分のことをどう思っているかの差が大きいと感じることがあります。
自分が思っている以上に人とコミュニケーションが取れないし、なかなか話が噛み合わないし、なぜか人のことを怒らせてしまう…みたいなことがやはり多いです。(他者理解がない)
なので、基本は自分の話はつまらないし、自分自身に期待もしてないし、自己肯定感が低いし、このブログだって誰も見てないし、というスタンスで書いています。なので楽だし、何より楽しい。思考を削ぎ落としていく感覚です。
たた、生きていく上で実際的にコミュニケーションを取ったりするので、他者とのギャップを埋めるため改善しようと「職場での自分」「家庭での自分」「友達との自分」というように他者から思われているような川口竜太を演じたり、この社会の常識というものを前提とした行動を、なるべく不愉快にならないように相手の文脈を理解した上で配慮するように(なのでロン毛を切りました)工夫しています。
しかし、ふとした時にその川口竜太を演じられなくなることがあったりしてへこむことがあります。#不意に出てくる

社会不適合
そもそも今までの人生を生きていた中で他者からどう思われても関係ないと思っていました。自分が考えていることを実行することが楽しいし、自分の人生だしって。なのでいわゆる「社会不適合の部類に当てはまる存在」でした。
現在、たまたま好きなことを通して仕事をしてお金を頂いていますが、そもそも自分はいわゆる一般企業に勤められなかったんだと思います。
立場
それが結婚して、子どもが生まれて父親になり、自分だけよければよいという考えから周りからどう思われているかを考慮して生きていかなければなくなりました。歳を重ねるってこういうことなんですね。
また、職場でもコミュニケーションを円滑に使うようになったため、それなりに立ち振る舞いを考慮しなければいけない立ち位置になってきました。
2020年、川口竜太という社会不適合者が社会に適合しようとしているんです。(ウケる。)
まぁそりゃあそんなに上手くいきませんし、弊害が生まれてきますよね。
そうなると自分の考えとかアイデアとかどうでもよくなってくることが多くなり、他者と関わるときは自分の思考をなるべく伝えずに、一般的な考えに基づいてコミュニケーションを図る努力をしています。
なのでアレクサいいなぁと思うこともたくさんあります。笑

結論
だからこのブログが大切なんだと思います。
過去を見返すとこんなに変化したんだなぁと思うことが多々あります。
変わっていくことを恐れず、そんな自分を楽しんでいけたらいいなぁと思います。社会と関わる時、「ありのままでいい」なんて嘘です。いわゆる素晴らしい人と定義される人は生まれながらの性格のように評してしまうけど、それら全部、技術であり、彼ら彼女らはものすごい努力して、意識して、仕事としてそのような印象を与えるように行動していますよね。
社会不適合が素晴らしい人と思われるように変わり続けて(演じ)たいと思う今日この頃でした。
自分の理由でやりたい
挑戦って同調圧力
最近「挑戦」という言葉を聞いた時に、とても強いメッセージ性と同時にかなり鋭利な尖った印象を抱きます。
それは、挑戦という言葉に対する抵抗感に似た様なものです。正直、挑戦という言葉があまり得意でない人の方がこの世の中多いんじゃないかと思うんです。
「挑戦だ〜!」っていうと何かに追い立てられる様な焦燥感。
例えるなら、自己肯定感問題に近いです。
自己肯定感が低い人って日本にはたくさんいると思います。そういう人って自己肯定感が高い人を見ると結構、劣等感に陥るんですよね。けど、世の中的(ビジネス本とか特に)には自己肯定感が高くないとダメだし、低い人をどうにかして高くしようとするじゃないですか。
これと挑戦って似てるように感じるんですよね。
夢中とは
一方で、好きなことに夢中になってるのはとても楽しい時間ですよね。けどこれは「挑戦」という概念に括ってよいか非常に悩みます。
個人的な感覚では挑戦の成分には拘束、束縛、統制、強制といったものが含まれていると感じています。
#やらなければいけない
#行動力
#使命感
…みたいな感じです。最近の自分にはとても苦手です。
それよりも自由な感覚に近い「ワクワク」が湧き出るような行為を大切にしています。
では、自由とはなんでしょうか。
自由と他由
自由を訓読みしてみると、「自らに由(よ)る」とか「自分に理由がある」と読めますよね。
「自分がやりたい」とか「意味がある」と思うことを選んでいるので、「自分に理由がある」というはしっくりきます。
なので、対義語は「他由(たゆう)」です。
他人に理由があって動いている状態ですね。他人がやれと言うからやる。それが、他由です。
自由な挑戦とは
以上を踏まえると自由な挑戦というのは自分がやりたくて、意義や意味があることなんだと思います。
そういう感覚を手に入れるためにはスタートは他人から影響されたことでも、自分で意味づけをして「自分がやりたい」と思えれば、それは自由と呼べますよね。
多くの仕事(もしかしたら全てに当てはまるかも)は、他由からはじまりますが、この思考法で大抵の場合は、仕事の意味を自分で解釈して、他由を自由に転換できるように思います。
つまんない仕事だったり、家事や育児も仕事も、視点や解釈を変えてみることって面白くなるかもしれません。

評価も判断もしない
今回は子どもから学んだことについてです。
日々の育児ので大きく変わったのは「見方」です。子どもが産まれるの人の見方と、子どもが産まれた後の人の見方では大きく違います。
人を機能としてみていた自分
仕事で大きな目標に対して向かっていく時、当然できる人とできない人がいます。この人はこれが出来るからいい。この人はこれが出来ないからダメだって思っていると人間って信頼関係が築けないなぁと思わされました。
もちろん、出来ないことは事実として認知するけど、それだけの視点で見てはいけないですよね。そうなると見てるつもりはないけど、人を道具として考えてしまうことが過去を振り返るとたくさんあったように思います。
自分の子どもを育てていくと、当然一人で飯も食べれないし、おむつも替えられない。喋れないし、歩けません。
けど、「何をするか」という視点だけでみるのではなく、その「存在」が多くの人を元気にしてくれるのです。存在しているだけでです。
そういう思考になると倫理観だけはだめですよね。安易に○○良いとか○○悪いとかいえません。
人は理解できない
人を本当の意味で理解することは絶対に出来ません。当たり前ですが、分からないんです。人が人を理解することが出来ないのは当たり前。けど、大事なのは理解しようとする心の在り方なんだと実感しています。そこが人の感情に大きな影響を与えると思います。
例えば、自分が妻のことをちゃんと分かっているかなんて、妻にはそこまで大切ではなくて、本当に大切なのは俺が妻を分かろうとしていること(心の在り方)です。
子どもも全く同じです。赤ちゃんなので何を言ってるのか、何を考えているのか分かりません。けど、子ども対して分かろうとする行為や想いが大切だと思います。
ただ、それがとても難しいんです。
なぜなら、自我というフィルターがあるからです。
例えば、子どもに対して「なんでこの時間に寝てくれないの」「なんで片付けたのにすぐに汚くするの」…という自我のフィルターが一回入ってしまうとこうして欲しかったいう見返りや期待を求めてしまいます。
これが冒頭に話した「人を機能として見てしまう」思考と繋がります。
そのフィルターをかけないことが大切なのはわかりますが、それはこだわりを捨てることであり、こだわりとは=<自分の個性やアイデンティティ>を捨てることと同じになります。
答えを急がないことの大切さ
生の人間として見ることはとても努力と忍耐が必要です。特に大切なのは一つの尺度で見ないことです。

「悪い人もいないし、良い人もいない」
こういう思考で人をみるのは努力が相当必要です。しかし、この努力する姿勢が「寄り添う」ことにつながると信じています。
簡単に人を評価も判断もしないこと。
すぐに決めないこと。
幕末で活躍した新撰組の視点、土佐藩の西郷隆盛の視点、黒船来航ペリーの視点、長州藩の高杉晋作の視点、龍馬の視点…などが非常に分かりやすいですよね。
誰が正しいとか、誰が間違いとかないんです。
そんな安易なフレームワークとテンプレートを捨てることがこの歳になって、父親になって分かったことがとても大きいと思います。
自由をどう活用するか
今回は「自由」というものを整理して理解した上でサッカーのプレーモデルを形成した方が良いと思う話をします。
①自由とは何か

色々と諸説はありますが、資本主義登場以前にはうつ病も統合失調症もなかったらしいです。
資本主義の特徴として
自由がある
権利がある
生産性の向上
です。
この影響によって、うつ病や統合失調症が出てきたと言っている方がいて、正確なデータや根拠はないにしても、あながち否定できないなぁと思います。
それは自由がなければアイデンティティの喪失という概念も起こりにくいはずですよね。
また、自由なためにあらゆる選択肢が求められます。選択があるからこそ「良い選択」「悪い選択」が生まれてきます。だから悩んで困難な状況に陥ります。…というが今の時代に確実に当てはまります。
だからといって自由がない時代に遡るとそこには「奴隷」という概念があります。黒人はもちろん、女性というだけで人権はありませんでしたからね。
なので、自由があるとうつ病があり、自由がなければ奴隷があります。
「どちらがよいか?」という問いには正解がないんです。
②サッカーは社会の縮図
サッカーも同じように正解がないスポーツです。最近、社会経済学というジャンルを学べば学ぶほど「これ、サッカーにも当てはまるよね」ってことが多々ありました。
大きなピッチの中で、一つのチーム(社会)が、競い合うチームに対して、ルール(法律)という制約の中で「自由」に動くことを許されています。
この「自由」がとても厄介で、失敗をすることは前提でチャレンジしなくてはいけませんし、その度に次へ、次へと進んで行かなければ、生き続けていくことは出来ません。
では、次に進むためにはどのような知識が必要でしょうか。そして、どのような思想や理念が必要でしょうか。それに対してどのような決断をしていく必要があるでしょうか。
これがサッカーにおけるチームのコンセプトやプレーモデルに当てはまると思います。
また、他人と協力してプレーをすること(生きていくこと)も出来ますが、一人で生きていくことも出来ます。
ただ、面白いことに一人でプレーする(生きている)と思っている人間は、実は決して一人でプレー(生きて)してはいないのです。ここが社会で生きることにとても繋がっている気がします。
*大好きな著者であり編集者の佐渡島さんが「人は孤独である。しかし、1人ではない〜We are lonely,but not alone.〜」ということ語っていてなるほどなぁと思わされます。
WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜 (NewsPicks Book)
- 作者:佐渡島 庸平
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①②を踏まえて考えることは「何をしないか」
今回の結論ですが、なんでも自由ではなく型を作ってからそこで自由な判断やアイデアを出すことがとても大切だということです。それには何をしないかを決めることが重要です。
なにをしないのかを決めるのは、
なにをするのかを決めるのと同じくらい大事だ。
──スティーブ・ジョブズ

また、ビジネスの基本戦略で大事なのは「何をするか」ではなく、「何をしないか」を明確に決めることと言われています。
なぜなら、当たり前ですが、経営資源(ヒト、モノ、カネ、情報、ネットワーク)には限りがあるからですね。


サッカーでは、ピッチのエリアを区切ったり(5レーン)、ポジションで選択を決まりする(ポジショナルプレー)など工夫が必要です。

また、監督の意向だけではなく、チームのコンセプトやビジョンに基づいて戦術を決めていくことが今後スポーツマーケティングにおいてはとても大切だと感じています。

自由とは何か
自由がいつ生まれたのか
自由以前には何があったのか
様々な側面を理解しておくことで、サッカーにおける自由、そして今の時代を生きる自分自身の自由の在り方を考えられると考えています。
