その人を見る
育成年代の面白味
中学3年間教えていた選手が高校サッカー選手権大会東京都予選で優勝しました。しかも、準決勝、決勝ともに得点という結果を出しています。正月の全国高校サッカーが楽しみになりました。
改めて育成年代の面白味を実感します。有名ではない人、何も成し遂げてない人というのはまだ世間的には評判されてない人であるということなんですよね。
いくらでも伸び代がありますし、これから評価される方もたくさんいます。
そんな先の未来を見据えて指導する喜びを感じることに指導者としての生きがいを感じたりします。
成功の定義
サッカーとしてプロになった知り合いもいます。プロになるというのは世の中の成功を手に入れたようなものですよね。
プロになって活躍している教え子もいますし、今、仲良くさせてもらっている方もいます。
有名な人や何かを成し遂げた人など、そのような方はそのような方の悩み、葛藤、不安などもありますし、結局そのままの人間なんですよね。
そんな様々な側面を見ることで感じることは
一瞬、一瞬を点で見ると成功なんでしょうけど、長い人生の中での成功ってなんだろうなぁという疑問を感じています。
納得感
成功に縛られてしまうと何かの比較対象になってしまいます。なので自分自身が納得できることがとても大切だと感じています。(俺は納得して死にたい)
それは、今とこれからを生きていくには「いろんな人間と調和ができるかが不可欠」だからです。
人種や宗教、境遇が違う人たちの立場や視点で理解できるかどうか。理解しようと受容できる範囲が広ければ広いほど、価値が発揮できる時代になっていますよね。
そもそも同じ日本に暮らしている人同士だって、その特性や立場、状態、モノの見方、思考は100人いれば100通りありますよね。
スタンダードやロールモデルがない社会が加速しているからこそ、「深さよりも範囲」のほうが大事になっている。そんな感覚があります。
「相手をジャッジせずに受け取れるか」が重要であるともいえますね。
偏見なく人を見れるかどうか。
日々試行錯誤しています。
ではでは。
贈与とは
最近素晴らしい本に出会いました。
日々忙しく生きる中で「贈与」に気付かずに生きていることがたくさんあります。
気付き①両親への感謝
育児している娘への贈与を娘が気づき感謝することはないですし、そもそも子育てには感謝など起きません。しかし、代わりに子育てをしながら、自分の中で両親への感謝が芽生えます。
自分が子育てをしなければ、両親の贈与に気づくことができなかったなぁと思います。子育てとは、両親が僕にしてくれた贈与に気づくきっかけをくれる行為なのだと感じます。
気付き②夫婦
夫婦も贈与で関係が成立しています。役割の交換ではありません。相手のためを思ってした行為の全てを、お互いが理解するわけではありません。相手の贈与に気づき、自分も相手に贈与する。そうすることで、家庭という場が維持され、関係が更新されるんだと思います。(役割分担をしあう関係には限界がくる。)
気付き③贈与は呪いになる
基本的には仕事上の付き合いだけでは信頼を得ることはできないとおもいます。交換論理。Give and takeの関係ですからね。
この関係、逆を言えば「お前の変わりはほかにいる」というメッセージになりますね。だから、仕事がなくなってしまうと孤立になります。
交換のロジックでは、交換できるものを持たないものは、社会的価値がなくなります。
本の中で、贈与の特徴を示す例として紹介されていたのが、年老いた母を抱え仕事がなくなり失業保険の給付が終わって、心中という選択をした男性の話。
その方が死を選んだ理由は、頼れる相手がいなかったか、頼りにできる相手がいても自分が相手に返せるものがなかったのではないか。例えばお金を借りるとしても、お金を返せるあてがなければ頼ることはできないと考えたのではないか、と推察されています。
しかし、実は私たちが一番つながりを必要とするのは、何も交換できるものを持ち合わせていない時ではないでしょうか。現代は、お金があれば人を頼りにせずに生きていける資本主義の世界です。そして、誰にも頼ることなく生きていける世界は、裏を返せば自分も誰からも頼りにされることがない世界でもあります。
改めて贈与は交換ではない
見返りを必要とする交換と比べて、贈与は相手への感謝や祝福の思いを込めて、リターンの期待なく行われるものです。贈与の受け手は、ある種の負債感を感じます(親の愛も)。それが次なる贈与へとつながり、贈与で社会が回っていく。目に見えないけどそんな仕組みなんだなぁとこの本から学ぶことが出来ました。
ではでは。
あいまいの大切さ
本題の前に
意味のないものを書き続けるモチベーションが下がってしまい、ブログを怠ってしまいました。しかし、意味が「ある」か「ない」かは受け取る側の問題であるという言葉を見つけてなるほどと思い再度書こうと思いました。
そもそも、頭の思考をアウトプットしないと新たな思考が生まれにくく、この感覚は身体を洗う感じだったり、ルーティン作りと同じなんですよね。また、不定期に(頑張って週に1度)つらつら綴ります。
評価しないこと
20代は正しさより楽しさと言い続けてきましたが、ここ最近はハッキリとした定義づけではなく「あいまい」を大切にしています。それは物事に対しての正しいとか間違っているとかの端的な時間で評価をしないことを意味しています。楽しいとか辛いとかの感情だけに囚われないこと。思考と自我と感情を別にすること。分けることで仕事・家庭・プライベートでの自分が成立しています。
価値の基準
仕事での価値は「数字」であり、家庭での価値は「時間」であり、プライベートでの価値は「学び」という感じで分けることで思考と感情も変化します。
全て一つの評価軸での物差しでみると自己嫌悪に落ちる傾向にあります。例えば"仕事は出来ても家庭で居場所がない"みたいな感覚です。
そもそも仕事での思考と家庭での思考は違う(価値が違うから)ので、使い分けがとても大切だと実感しています。
"居心地が悪い"と感じるのは他者から(そのコミュニティ内)評価されるからですよね。初めは楽しいで始めたモノ・コトも次第に評価対象や評価基準になっていく(楽しいからプールをやったのに次第に段をとらないと…みたいな)ので、居心地が悪くなります。
バガボンドの「殺し合いの螺旋から降りる」という表現はまさに!という感覚です。
この時代は天下無双という1つの目標にみんなが向かいます。他者に勝ち続ける限り、誰かを蹴落とし続け、それと同時に自分が狙われ続けなければなりません。これは私達現代人も、このような斬り合いこそないですが、同じように毎日が勝負の世界…生きるか死ぬかの世界に生きています。勝ち負けやどちらが上か?下か?といった螺旋。どちらが勝つか?負けるか?どちらがきれいか?醜いか?どちらが金を持っているか?貧しいか?どちらが頭がいいか?悪いか?等々…。
ただ、この螺旋から降りずに生きていく手段を見つけました。それは螺旋を増やすことです。
あいまいの本質
評価軸が1つしかないと結局、いつかは疲弊していきます。だから今自分は「あいまい」を大切にしています。自分の中のあいまいの定義は「評価されにくい」ということです。
一つの評価軸だけではなく、様々な評価軸を組み合わせていくことで価値が変化していくことです。例えば100万人の中で1位を目指すのではなく、100人の中で1位を目指すジャンルを3つ掛け合わせていけば100万人の中で1位の価値に出来ますよね。
このように様々なジャンルを掛け合わせていくことで、簡単に評価されにくい人物になるのではないかと思考しています。
一個に絞ってどこまでいくか。という考えの原点は「教育」だと思います。(悪いとは言ってません。) 例えば、昔は部活の掛け持ちなんてできなかったですし、学校の先生に子どもの時に夢はなんですか?って言われて5個以上夢を書き出したら1個にしなさいって言われたような気がします。
しかし、今副業時代とも言われていて、ビジネスも一個に絞らなくても良い時代になっていています。何かを成し遂げて他者から評価されるよりも、自分自身の基準・評価の中での充実感を大切にしていくことのほうが人生豊かになるのではと思う今日この頃です。
ではでは。
学びの1年
1歳
今月で娘が1歳になります。生まれてから1年は長いようであっという間でした。この1年で感じるのは「尊い」ということです。
当たり前ですが、娘はまだ一人でご飯は
食べられません。おむつも替えられませんし、会話も出来ませんし、歩けません(今練習に励んでますが)。毎日の娘の成長に合わせて夫婦で試行錯誤していくことで疲弊感はありますが、それ以上に成長してくれる喜びと尊さを感じます。
自分が1歳の時の記憶などほとんどありませんが(当たり前か)、この儚い自分の命を両親が大切に育ててくれたということに、父親となったことで深く感謝できます。また「子どもに期待するのは健康的に育って、親より長生きしてもらうことだけだよ」という両親の言葉の意味は、今なら深く理解することができます。
こういったことに気付くのは、実際に自分が親になってみないと分からないことなんでしょうかね。…と仕事で関わっている子どもたちを見て思います。笑
父親1歳
この1年は人間としても成長できたのではないかと思っています。思考、立ち振る舞い、ライフスタイルなど変化しないといけない環境の中で生きていくことで学ばされました。
ただ、子育てはとても楽しいけれども、なかなか落ち着きません。娘のことはもちろん、妻のコンディションも日々変化していくので心配し過ぎてしまいます。
日々の生活のなかで、自分はどういう工夫をしたら良いのか?という問いをいつも解いていた1年でした。(父親になり、もっとも考えた部分)
考え過ぎて正直、家が居場所でなくなる感覚もありました。ただ、自分自身と向き合わず現状に納得することも可能でしたが、そうはなりたくありませんでした。妻も、娘も、自分も、安心安全の家で在りたい。そう考え突き詰めると居場所ではなく、居心地を考えるようになりました。(身体ではなく、心)
何を感じたか
居場所がないと実感したのは「何かをしなければいけない」というTO DO思考が原因でした。育児においても、仕事においても、○○をしないと、○○をやらないと…という終わらない行為に不安と時には孤独を感じることが多かったです。思考の転換が必要だと思い、居場所ではなく、居心地を良くするためにはどうしたら良いかと考えることが変化しました。
1日の最後(仕事終わり、育児終わり)に明日は○○をしないととか考えることを一切やめにしました。それよりも自分は今日どう感じたのかを振り返ることを徹底しました。これがTO FEEL思考です。
何をしたのか、ではなく何を感じたのか。それを自分自身でメンテナンスし、たまには妻と分かち合うだけですごく家の居心地がよく感じるようになりました。
コロナ禍
コロナ禍で外出することが大きく減りましたが、家の居心地を探求した結果ほぼストレスはなくなりました。自分が安心することが何よりも大切なんだと気付きましたし、娘や妻の変化にも気付くようになりました。
これからも変化していくことを怖がらず、父親2年目も一歩一歩「前だけ」を見ていきます。
ありのままでいいなんて嘘
演じる
自分が思っていることと他者が自分のことをどう思っているかの差が大きいと感じることがあります。
自分が思っている以上に人とコミュニケーションが取れないし、なかなか話が噛み合わないし、なぜか人のことを怒らせてしまう…みたいなことがやはり多いです。(他者理解がない)
なので、基本は自分の話はつまらないし、自分自身に期待もしてないし、自己肯定感が低いし、このブログだって誰も見てないし、というスタンスで書いています。なので楽だし、何より楽しい。思考を削ぎ落としていく感覚です。
たた、生きていく上で実際的にコミュニケーションを取ったりするので、他者とのギャップを埋めるため改善しようと「職場での自分」「家庭での自分」「友達との自分」というように他者から思われているような川口竜太を演じたり、この社会の常識というものを前提とした行動を、なるべく不愉快にならないように相手の文脈を理解した上で配慮するように(なのでロン毛を切りました)工夫しています。
しかし、ふとした時にその川口竜太を演じられなくなることがあったりしてへこむことがあります。#不意に出てくる
社会不適合
そもそも今までの人生を生きていた中で他者からどう思われても関係ないと思っていました。自分が考えていることを実行することが楽しいし、自分の人生だしって。なのでいわゆる「社会不適合の部類に当てはまる存在」でした。
現在、たまたま好きなことを通して仕事をしてお金を頂いていますが、そもそも自分はいわゆる一般企業に勤められなかったんだと思います。
立場
それが結婚して、子どもが生まれて父親になり、自分だけよければよいという考えから周りからどう思われているかを考慮して生きていかなければなくなりました。歳を重ねるってこういうことなんですね。
また、職場でもコミュニケーションを円滑に使うようになったため、それなりに立ち振る舞いを考慮しなければいけない立ち位置になってきました。
2020年、川口竜太という社会不適合者が社会に適合しようとしているんです。(ウケる。)
まぁそりゃあそんなに上手くいきませんし、弊害が生まれてきますよね。
そうなると自分の考えとかアイデアとかどうでもよくなってくることが多くなり、他者と関わるときは自分の思考をなるべく伝えずに、一般的な考えに基づいてコミュニケーションを図る努力をしています。
なのでアレクサいいなぁと思うこともたくさんあります。笑
結論
だからこのブログが大切なんだと思います。
過去を見返すとこんなに変化したんだなぁと思うことが多々あります。
変わっていくことを恐れず、そんな自分を楽しんでいけたらいいなぁと思います。社会と関わる時、「ありのままでいい」なんて嘘です。いわゆる素晴らしい人と定義される人は生まれながらの性格のように評してしまうけど、それら全部、技術であり、彼ら彼女らはものすごい努力して、意識して、仕事としてそのような印象を与えるように行動していますよね。
社会不適合が素晴らしい人と思われるように変わり続けて(演じ)たいと思う今日この頃でした。
自分の理由でやりたい
挑戦って同調圧力
最近「挑戦」という言葉を聞いた時に、とても強いメッセージ性と同時にかなり鋭利な尖った印象を抱きます。
それは、挑戦という言葉に対する抵抗感に似た様なものです。正直、挑戦という言葉があまり得意でない人の方がこの世の中多いんじゃないかと思うんです。
「挑戦だ〜!」っていうと何かに追い立てられる様な焦燥感。
例えるなら、自己肯定感問題に近いです。
自己肯定感が低い人って日本にはたくさんいると思います。そういう人って自己肯定感が高い人を見ると結構、劣等感に陥るんですよね。けど、世の中的(ビジネス本とか特に)には自己肯定感が高くないとダメだし、低い人をどうにかして高くしようとするじゃないですか。
これと挑戦って似てるように感じるんですよね。
夢中とは
一方で、好きなことに夢中になってるのはとても楽しい時間ですよね。けどこれは「挑戦」という概念に括ってよいか非常に悩みます。
個人的な感覚では挑戦の成分には拘束、束縛、統制、強制といったものが含まれていると感じています。
#やらなければいけない
#行動力
#使命感
…みたいな感じです。最近の自分にはとても苦手です。
それよりも自由な感覚に近い「ワクワク」が湧き出るような行為を大切にしています。
では、自由とはなんでしょうか。
自由と他由
自由を訓読みしてみると、「自らに由(よ)る」とか「自分に理由がある」と読めますよね。
「自分がやりたい」とか「意味がある」と思うことを選んでいるので、「自分に理由がある」というはしっくりきます。
なので、対義語は「他由(たゆう)」です。
他人に理由があって動いている状態ですね。他人がやれと言うからやる。それが、他由です。
自由な挑戦とは
以上を踏まえると自由な挑戦というのは自分がやりたくて、意義や意味があることなんだと思います。
そういう感覚を手に入れるためにはスタートは他人から影響されたことでも、自分で意味づけをして「自分がやりたい」と思えれば、それは自由と呼べますよね。
多くの仕事(もしかしたら全てに当てはまるかも)は、他由からはじまりますが、この思考法で大抵の場合は、仕事の意味を自分で解釈して、他由を自由に転換できるように思います。
つまんない仕事だったり、家事や育児も仕事も、視点や解釈を変えてみることって面白くなるかもしれません。
評価も判断もしない
今回は子どもから学んだことについてです。
日々の育児ので大きく変わったのは「見方」です。子どもが産まれるの人の見方と、子どもが産まれた後の人の見方では大きく違います。
人を機能としてみていた自分
仕事で大きな目標に対して向かっていく時、当然できる人とできない人がいます。この人はこれが出来るからいい。この人はこれが出来ないからダメだって思っていると人間って信頼関係が築けないなぁと思わされました。
もちろん、出来ないことは事実として認知するけど、それだけの視点で見てはいけないですよね。そうなると見てるつもりはないけど、人を道具として考えてしまうことが過去を振り返るとたくさんあったように思います。
自分の子どもを育てていくと、当然一人で飯も食べれないし、おむつも替えられない。喋れないし、歩けません。
けど、「何をするか」という視点だけでみるのではなく、その「存在」が多くの人を元気にしてくれるのです。存在しているだけでです。
そういう思考になると倫理観だけはだめですよね。安易に○○良いとか○○悪いとかいえません。
人は理解できない
人を本当の意味で理解することは絶対に出来ません。当たり前ですが、分からないんです。人が人を理解することが出来ないのは当たり前。けど、大事なのは理解しようとする心の在り方なんだと実感しています。そこが人の感情に大きな影響を与えると思います。
例えば、自分が妻のことをちゃんと分かっているかなんて、妻にはそこまで大切ではなくて、本当に大切なのは俺が妻を分かろうとしていること(心の在り方)です。
子どもも全く同じです。赤ちゃんなので何を言ってるのか、何を考えているのか分かりません。けど、子ども対して分かろうとする行為や想いが大切だと思います。
ただ、それがとても難しいんです。
なぜなら、自我というフィルターがあるからです。
例えば、子どもに対して「なんでこの時間に寝てくれないの」「なんで片付けたのにすぐに汚くするの」…という自我のフィルターが一回入ってしまうとこうして欲しかったいう見返りや期待を求めてしまいます。
これが冒頭に話した「人を機能として見てしまう」思考と繋がります。
そのフィルターをかけないことが大切なのはわかりますが、それはこだわりを捨てることであり、こだわりとは=<自分の個性やアイデンティティ>を捨てることと同じになります。
答えを急がないことの大切さ
生の人間として見ることはとても努力と忍耐が必要です。特に大切なのは一つの尺度で見ないことです。
「悪い人もいないし、良い人もいない」
こういう思考で人をみるのは努力が相当必要です。しかし、この努力する姿勢が「寄り添う」ことにつながると信じています。
簡単に人を評価も判断もしないこと。
すぐに決めないこと。
幕末で活躍した新撰組の視点、土佐藩の西郷隆盛の視点、黒船来航ペリーの視点、長州藩の高杉晋作の視点、龍馬の視点…などが非常に分かりやすいですよね。
誰が正しいとか、誰が間違いとかないんです。
そんな安易なフレームワークとテンプレートを捨てることがこの歳になって、父親になって分かったことがとても大きいと思います。