学びの1年
1歳
今月で娘が1歳になります。生まれてから1年は長いようであっという間でした。この1年で感じるのは「尊い」ということです。
当たり前ですが、娘はまだ一人でご飯は
食べられません。おむつも替えられませんし、会話も出来ませんし、歩けません(今練習に励んでますが)。毎日の娘の成長に合わせて夫婦で試行錯誤していくことで疲弊感はありますが、それ以上に成長してくれる喜びと尊さを感じます。
自分が1歳の時の記憶などほとんどありませんが(当たり前か)、この儚い自分の命を両親が大切に育ててくれたということに、父親となったことで深く感謝できます。また「子どもに期待するのは健康的に育って、親より長生きしてもらうことだけだよ」という両親の言葉の意味は、今なら深く理解することができます。
こういったことに気付くのは、実際に自分が親になってみないと分からないことなんでしょうかね。…と仕事で関わっている子どもたちを見て思います。笑
父親1歳
この1年は人間としても成長できたのではないかと思っています。思考、立ち振る舞い、ライフスタイルなど変化しないといけない環境の中で生きていくことで学ばされました。
ただ、子育てはとても楽しいけれども、なかなか落ち着きません。娘のことはもちろん、妻のコンディションも日々変化していくので心配し過ぎてしまいます。
日々の生活のなかで、自分はどういう工夫をしたら良いのか?という問いをいつも解いていた1年でした。(父親になり、もっとも考えた部分)
考え過ぎて正直、家が居場所でなくなる感覚もありました。ただ、自分自身と向き合わず現状に納得することも可能でしたが、そうはなりたくありませんでした。妻も、娘も、自分も、安心安全の家で在りたい。そう考え突き詰めると居場所ではなく、居心地を考えるようになりました。(身体ではなく、心)
何を感じたか
居場所がないと実感したのは「何かをしなければいけない」というTO DO思考が原因でした。育児においても、仕事においても、○○をしないと、○○をやらないと…という終わらない行為に不安と時には孤独を感じることが多かったです。思考の転換が必要だと思い、居場所ではなく、居心地を良くするためにはどうしたら良いかと考えることが変化しました。
1日の最後(仕事終わり、育児終わり)に明日は○○をしないととか考えることを一切やめにしました。それよりも自分は今日どう感じたのかを振り返ることを徹底しました。これがTO FEEL思考です。
何をしたのか、ではなく何を感じたのか。それを自分自身でメンテナンスし、たまには妻と分かち合うだけですごく家の居心地がよく感じるようになりました。
コロナ禍
コロナ禍で外出することが大きく減りましたが、家の居心地を探求した結果ほぼストレスはなくなりました。自分が安心することが何よりも大切なんだと気付きましたし、娘や妻の変化にも気付くようになりました。
これからも変化していくことを怖がらず、父親2年目も一歩一歩「前だけ」を見ていきます。
ありのままでいいなんて嘘
演じる
自分が思っていることと他者が自分のことをどう思っているかの差が大きいと感じることがあります。
自分が思っている以上に人とコミュニケーションが取れないし、なかなか話が噛み合わないし、なぜか人のことを怒らせてしまう…みたいなことがやはり多いです。(他者理解がない)
なので、基本は自分の話はつまらないし、自分自身に期待もしてないし、自己肯定感が低いし、このブログだって誰も見てないし、というスタンスで書いています。なので楽だし、何より楽しい。思考を削ぎ落としていく感覚です。
たた、生きていく上で実際的にコミュニケーションを取ったりするので、他者とのギャップを埋めるため改善しようと「職場での自分」「家庭での自分」「友達との自分」というように他者から思われているような川口竜太を演じたり、この社会の常識というものを前提とした行動を、なるべく不愉快にならないように相手の文脈を理解した上で配慮するように(なのでロン毛を切りました)工夫しています。
しかし、ふとした時にその川口竜太を演じられなくなることがあったりしてへこむことがあります。#不意に出てくる
社会不適合
そもそも今までの人生を生きていた中で他者からどう思われても関係ないと思っていました。自分が考えていることを実行することが楽しいし、自分の人生だしって。なのでいわゆる「社会不適合の部類に当てはまる存在」でした。
現在、たまたま好きなことを通して仕事をしてお金を頂いていますが、そもそも自分はいわゆる一般企業に勤められなかったんだと思います。
立場
それが結婚して、子どもが生まれて父親になり、自分だけよければよいという考えから周りからどう思われているかを考慮して生きていかなければなくなりました。歳を重ねるってこういうことなんですね。
また、職場でもコミュニケーションを円滑に使うようになったため、それなりに立ち振る舞いを考慮しなければいけない立ち位置になってきました。
2020年、川口竜太という社会不適合者が社会に適合しようとしているんです。(ウケる。)
まぁそりゃあそんなに上手くいきませんし、弊害が生まれてきますよね。
そうなると自分の考えとかアイデアとかどうでもよくなってくることが多くなり、他者と関わるときは自分の思考をなるべく伝えずに、一般的な考えに基づいてコミュニケーションを図る努力をしています。
なのでアレクサいいなぁと思うこともたくさんあります。笑
結論
だからこのブログが大切なんだと思います。
過去を見返すとこんなに変化したんだなぁと思うことが多々あります。
変わっていくことを恐れず、そんな自分を楽しんでいけたらいいなぁと思います。社会と関わる時、「ありのままでいい」なんて嘘です。いわゆる素晴らしい人と定義される人は生まれながらの性格のように評してしまうけど、それら全部、技術であり、彼ら彼女らはものすごい努力して、意識して、仕事としてそのような印象を与えるように行動していますよね。
社会不適合が素晴らしい人と思われるように変わり続けて(演じ)たいと思う今日この頃でした。
自分の理由でやりたい
挑戦って同調圧力
最近「挑戦」という言葉を聞いた時に、とても強いメッセージ性と同時にかなり鋭利な尖った印象を抱きます。
それは、挑戦という言葉に対する抵抗感に似た様なものです。正直、挑戦という言葉があまり得意でない人の方がこの世の中多いんじゃないかと思うんです。
「挑戦だ〜!」っていうと何かに追い立てられる様な焦燥感。
例えるなら、自己肯定感問題に近いです。
自己肯定感が低い人って日本にはたくさんいると思います。そういう人って自己肯定感が高い人を見ると結構、劣等感に陥るんですよね。けど、世の中的(ビジネス本とか特に)には自己肯定感が高くないとダメだし、低い人をどうにかして高くしようとするじゃないですか。
これと挑戦って似てるように感じるんですよね。
夢中とは
一方で、好きなことに夢中になってるのはとても楽しい時間ですよね。けどこれは「挑戦」という概念に括ってよいか非常に悩みます。
個人的な感覚では挑戦の成分には拘束、束縛、統制、強制といったものが含まれていると感じています。
#やらなければいけない
#行動力
#使命感
…みたいな感じです。最近の自分にはとても苦手です。
それよりも自由な感覚に近い「ワクワク」が湧き出るような行為を大切にしています。
では、自由とはなんでしょうか。
自由と他由
自由を訓読みしてみると、「自らに由(よ)る」とか「自分に理由がある」と読めますよね。
「自分がやりたい」とか「意味がある」と思うことを選んでいるので、「自分に理由がある」というはしっくりきます。
なので、対義語は「他由(たゆう)」です。
他人に理由があって動いている状態ですね。他人がやれと言うからやる。それが、他由です。
自由な挑戦とは
以上を踏まえると自由な挑戦というのは自分がやりたくて、意義や意味があることなんだと思います。
そういう感覚を手に入れるためにはスタートは他人から影響されたことでも、自分で意味づけをして「自分がやりたい」と思えれば、それは自由と呼べますよね。
多くの仕事(もしかしたら全てに当てはまるかも)は、他由からはじまりますが、この思考法で大抵の場合は、仕事の意味を自分で解釈して、他由を自由に転換できるように思います。
つまんない仕事だったり、家事や育児も仕事も、視点や解釈を変えてみることって面白くなるかもしれません。
評価も判断もしない
今回は子どもから学んだことについてです。
日々の育児ので大きく変わったのは「見方」です。子どもが産まれるの人の見方と、子どもが産まれた後の人の見方では大きく違います。
人を機能としてみていた自分
仕事で大きな目標に対して向かっていく時、当然できる人とできない人がいます。この人はこれが出来るからいい。この人はこれが出来ないからダメだって思っていると人間って信頼関係が築けないなぁと思わされました。
もちろん、出来ないことは事実として認知するけど、それだけの視点で見てはいけないですよね。そうなると見てるつもりはないけど、人を道具として考えてしまうことが過去を振り返るとたくさんあったように思います。
自分の子どもを育てていくと、当然一人で飯も食べれないし、おむつも替えられない。喋れないし、歩けません。
けど、「何をするか」という視点だけでみるのではなく、その「存在」が多くの人を元気にしてくれるのです。存在しているだけでです。
そういう思考になると倫理観だけはだめですよね。安易に○○良いとか○○悪いとかいえません。
人は理解できない
人を本当の意味で理解することは絶対に出来ません。当たり前ですが、分からないんです。人が人を理解することが出来ないのは当たり前。けど、大事なのは理解しようとする心の在り方なんだと実感しています。そこが人の感情に大きな影響を与えると思います。
例えば、自分が妻のことをちゃんと分かっているかなんて、妻にはそこまで大切ではなくて、本当に大切なのは俺が妻を分かろうとしていること(心の在り方)です。
子どもも全く同じです。赤ちゃんなので何を言ってるのか、何を考えているのか分かりません。けど、子ども対して分かろうとする行為や想いが大切だと思います。
ただ、それがとても難しいんです。
なぜなら、自我というフィルターがあるからです。
例えば、子どもに対して「なんでこの時間に寝てくれないの」「なんで片付けたのにすぐに汚くするの」…という自我のフィルターが一回入ってしまうとこうして欲しかったいう見返りや期待を求めてしまいます。
これが冒頭に話した「人を機能として見てしまう」思考と繋がります。
そのフィルターをかけないことが大切なのはわかりますが、それはこだわりを捨てることであり、こだわりとは=<自分の個性やアイデンティティ>を捨てることと同じになります。
答えを急がないことの大切さ
生の人間として見ることはとても努力と忍耐が必要です。特に大切なのは一つの尺度で見ないことです。
「悪い人もいないし、良い人もいない」
こういう思考で人をみるのは努力が相当必要です。しかし、この努力する姿勢が「寄り添う」ことにつながると信じています。
簡単に人を評価も判断もしないこと。
すぐに決めないこと。
幕末で活躍した新撰組の視点、土佐藩の西郷隆盛の視点、黒船来航ペリーの視点、長州藩の高杉晋作の視点、龍馬の視点…などが非常に分かりやすいですよね。
誰が正しいとか、誰が間違いとかないんです。
そんな安易なフレームワークとテンプレートを捨てることがこの歳になって、父親になって分かったことがとても大きいと思います。
自由をどう活用するか
今回は「自由」というものを整理して理解した上でサッカーのプレーモデルを形成した方が良いと思う話をします。
①自由とは何か
色々と諸説はありますが、資本主義登場以前にはうつ病も統合失調症もなかったらしいです。
資本主義の特徴として
自由がある
権利がある
生産性の向上
です。
この影響によって、うつ病や統合失調症が出てきたと言っている方がいて、正確なデータや根拠はないにしても、あながち否定できないなぁと思います。
それは自由がなければアイデンティティの喪失という概念も起こりにくいはずですよね。
また、自由なためにあらゆる選択肢が求められます。選択があるからこそ「良い選択」「悪い選択」が生まれてきます。だから悩んで困難な状況に陥ります。…というが今の時代に確実に当てはまります。
だからといって自由がない時代に遡るとそこには「奴隷」という概念があります。黒人はもちろん、女性というだけで人権はありませんでしたからね。
なので、自由があるとうつ病があり、自由がなければ奴隷があります。
「どちらがよいか?」という問いには正解がないんです。
②サッカーは社会の縮図
サッカーも同じように正解がないスポーツです。最近、社会経済学というジャンルを学べば学ぶほど「これ、サッカーにも当てはまるよね」ってことが多々ありました。
大きなピッチの中で、一つのチーム(社会)が、競い合うチームに対して、ルール(法律)という制約の中で「自由」に動くことを許されています。
この「自由」がとても厄介で、失敗をすることは前提でチャレンジしなくてはいけませんし、その度に次へ、次へと進んで行かなければ、生き続けていくことは出来ません。
では、次に進むためにはどのような知識が必要でしょうか。そして、どのような思想や理念が必要でしょうか。それに対してどのような決断をしていく必要があるでしょうか。
これがサッカーにおけるチームのコンセプトやプレーモデルに当てはまると思います。
また、他人と協力してプレーをすること(生きていくこと)も出来ますが、一人で生きていくことも出来ます。
ただ、面白いことに一人でプレーする(生きている)と思っている人間は、実は決して一人でプレー(生きて)してはいないのです。ここが社会で生きることにとても繋がっている気がします。
*大好きな著者であり編集者の佐渡島さんが「人は孤独である。しかし、1人ではない〜We are lonely,but not alone.〜」ということ語っていてなるほどなぁと思わされます。
WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜 (NewsPicks Book)
- 作者:佐渡島 庸平
- 発売日: 2018/05/09
- メディア: 単行本
①②を踏まえて考えることは「何をしないか」
今回の結論ですが、なんでも自由ではなく型を作ってからそこで自由な判断やアイデアを出すことがとても大切だということです。それには何をしないかを決めることが重要です。
なにをしないのかを決めるのは、
なにをするのかを決めるのと同じくらい大事だ。
──スティーブ・ジョブズ
また、ビジネスの基本戦略で大事なのは「何をするか」ではなく、「何をしないか」を明確に決めることと言われています。
なぜなら、当たり前ですが、経営資源(ヒト、モノ、カネ、情報、ネットワーク)には限りがあるからですね。
サッカーでは、ピッチのエリアを区切ったり(5レーン)、ポジションで選択を決まりする(ポジショナルプレー)など工夫が必要です。
また、監督の意向だけではなく、チームのコンセプトやビジョンに基づいて戦術を決めていくことが今後スポーツマーケティングにおいてはとても大切だと感じています。
自由とは何か
自由がいつ生まれたのか
自由以前には何があったのか
様々な側面を理解しておくことで、サッカーにおける自由、そして今の時代を生きる自分自身の自由の在り方を考えられると考えています。
相手の文脈を理解すること
今回は仕事やコミュニティなどの今後の在り方で大切だよなぁと感じていることを話します。
大まかな思考文化
アメリカだとシリコンバレーでは、ゴールがあってそのためには手段を問わないっていう考えがあります。いわゆるハッカー的な文化です。引き抜きなども頻繁に行いますよね。
日本の場合はゴールよりも手段が大切だったりします。例えに相応しいか分かりませんが、最近では星野源の「うちで踊ろう」を使いたいからUPしたり(安倍総理だってやりましたよね)、昔だと初音ミク使いたいから曲を作ったりと、どう利用しようかという考えがあります。いわゆる手段が目的化するオタク文化です。
はたまた、西洋だと宗教概念的に「神との契約」があって「あなたには使命がある」という教えがあります。いわゆるミッション文化です。ビジネス書にも多発してる「ミッションを大切にする企業の理念」の根底には宗教的概念があったりするかもですね。
日本独特の「道」の考え
さて、日本では「道」という考えがあります。
武道や茶道など。道って終わりがないので考え続けますし、日々の生活の中で発見もあります。
*武士道面白い。
例えるなら山の頂上を目指していく喜びよりも、山を登っている中で紆余曲折することがストーリーになりそこに日本人はそこに魅力を感じるような気がします。
ラジオで聞いた面白いエピソードがありまして、「輝く」という概念は欧米では「星」を指すそうです。変わらずに光を放つからですね。
日本だと「太陽」を指すそうです。朝日や夕陽など変わり続ける(四季もそうですね)色彩から感じていたんだそうです。
ゴールが大切なのか。手段が大切なのか。似てる部分ありますよね。
課題解決ではく、物語思考へ
個人的な見解ですが、近年は課題を解決する人が多くなってきて、機械やインターネットでも出来ますのでもうそこには魅力はないと思っています。(まとめサイトみたり、YouTube見ればだいたいなんとかなりますよね。)
それよりも課題を見つけている人や課題と戦っている姿に魅力があると思っています。なので最近はそこにめちゃ興味があります。(なぜを見つける天才吉田松陰の本は最高でした。)
単純ですけど、頭も手も動かしている人は魅力的ですよね。落合陽一や岡田武史、安藤忠雄や村上隆みたいな方にはその人だけのストーリーがあってそこに自分は魅力を感じます。
他人を理解するということは相手の文脈まで理解するということ
さて、自分のことを少し話すとサッカー知ろうとすると元々のスタートしたのはイギリスですし、サッカーという言葉はカナダ、アメリカ、日本でしか使わなかったりと(それ以外はフットボール)他国の文化や歴史的背景を理解しないといけません。
特に現代では移民や差別など影響で「異文化」を理解することがより重要になっていきます。相手を理解するためには上部だけではなく、相手の文脈までも理解していかないと本当意味で「理解すること」にはならないと思います。
そんな感覚を手に入れ始めた今日この頃です。本当の意味でサッカーを理解しないと日本のサッカーとかいうフレームワーク作りも出来ないよなぁと思っています。さて、手も足も動かそう。
今週も読んでくださりありがとうございました。
言語化することが概念を溶かすこと
言い訳
アウトプットすることはすごく大切だと理解していますが、まだ自分の中で納得しているところまで至ってなくて(思考プロセス中)…という感覚が多い日々です。
#理解と納得は同じようで違うんです
したがって毎週土曜日ブログをUPすることが難しくなってしまっています(という言い訳)
ただ、常に思考プロセス中だと昨日考えていた事を忘れてしまった!ということが連続的に起こっているのでやはり思考プロセス中でもアウトプットしなければいけないと思うようになりました。反省です。
ってことで今の自分の思考プロセスを簡潔に話します。
まず、他者を理解するためには多くの知識が必要で、そのために本を読んだりしています。そして知識を知識を照らし合わせて知恵が生まれます。そうすると自分の中で、こうなのかという「答え」よりも、なぜこうなんだろうという「問い」が出てきます。
その「問い」を解くためには、今ある解釈や定義、概念などを溶かすようなことをするための言語化が重要だと捉えるようになってきました。
*今日はここの部分をピックアップして話します。
30代はその言語化した新たな解釈や定義、概念などを実行するために自分は生きている(それが自分のワクワクやエネルギーになっている)感覚なんです。
そして、その言語化したことを実行するための仲間集めにはイデオロギーが大切(所属ではく、参加)だと妄想しています。
*ここはまだ出来ないですね。岡田メソッドなどです。
分かりましたか?(分かるわけない)
#分からないことを分かろう
#異文化理解
概念を溶かすための言語化の解釈
そもそも概念ってなんでしょうか。
概念=概ね(おおむね)+念(包み込む)なので、「大体こんな感じで包んだよ」ってことです。と自分の中で納得しています。
んで、日本はここ数年はこの包み込む念の膜がガチガチな気がします。Twitterはみんな大体怒ってますよね。怒りって簡単にエネルギーが出るので、気をつけないといけないですね。歴史的にはヒトラーはこの怒りをコントロールすることで自分を正当化してましたよね。
ヒトラーは極論ですが、とにかく「これが正しいんだ」っていう正義的な概念が自分はすごく嫌いで、この正しさの概念を再定義したいために、思考を続けているだろうなぁと思っています。
多様性は言語化から
さて、今までは男性、女性という性別という概念で物事を見ていたってことが当たり前だったのが、ジェンダーという概念が生まれて、男性、女性という概念が溶けましたよね。
また、中年の男性ばっかりが集まる会議が当たり前だったのが、ダイバーシティという概念が生まれて、その会議に違和感を持つようになったりしています。
この概念を溶かす言語化の感覚を自分の好きなサッカーに活かしたいと思っています。
結論
物事を見るときに大切なのが概念で、私たちは概念を通して世界を見ています。
なので新たに言語化して、概念を作ったら面白いだろうなぁと思っている日々です。
日本のサッカーという定義を溶かしていきませんか。
*多分ですが、FC今治の岡田さんは言語化して独自のフレームワークを作って実行してますね!エネルギーに満ち溢れてますね!