Ryota’s diary -日々のあわ-

不定期ですが、これから考えたこと、チャレンジを受けたこと、びびったこと、嬉しかったことなどの日々の出来事を書いていきます

自己愛についての考察

最近、自己愛、自分を愛するということについてよく考えます。

 

なぜなら自分自身のことが好きになれなかったからです。

 

俺やみんなも「他人を愛しなさい」ということは一つの価値観として、大切なこととして家庭や学校で教えられてきましたが、自分を愛するということについては、あまり積極的に語ってこなかったのではないでしょうか。

 

どちらかというと自己愛が語りにくいのは、ナルシシズムみたいな感じが気持ち悪いから、っていうのがあるのかもしれません。鏡を見て

 

ああ、俺は本当に俺のことが好きだな。ちょっと邪魔しないでくれ

という人がいたとすれば

 

どうぞ勝手にいつまでも鏡見ててください

 

という気持ちになります(笑)

 

そうなるべきだと俺は言いたいわけじゃないんです。ただ、人生ではやっぱり辛いこともあります。ハッピーなまま一生が終わればいいですけども、場合によっては多くの人から

 

「お前のことは嫌いだ」

「お前なんかこの世にいてほしくない」

 

と言われるようなことがあるかもしれません。

 

そういう苦しい状況の中で、最後の最後に、人間はやっぱり自分自身の面倒を、自分の責任で見るつもりで愛さなきゃいけないんじゃないかと思い始めました。

 

お前のことが嫌いだとみんなに言われた時、

「そうだ。実は僕も自分のことが嫌いなんです」と自ら言ってしまった瞬間に、僕たちはそのまま生きていくのが嫌になってしまうのではないのかなと思うんです。

 

 

自分自身、人生の中で何度かそういうふうな自己愛の必要性を感じたことがあります。

ただ俺は、自分自身のことがずっと、あまりよくわかりませんでした。

 

我ながら良いことをして、人から感謝されたり喜ばれたりすると「俺ってけっこう、根はいい人間なんじゃないのかな」とちょっとホッとするところもありましたし、逆に人をひどく傷つけてしまったり怒らせてしまった時には、自分にひどく失望することもありました。

自分はやっぱり本質的にどっか冷酷なところがあるんじゃないかとか。大好きな恩師川崎さんには「川口はいつもネガティヴだよなー」と見透かされてます(笑)

 

自分を愛するというのは、実は、誰を愛するよりも難しいことなのかもしれません。

なぜなら、あまりに何から何まで知り尽くしているからです。

過去に自分がやってきたことをいろいろ思い浮かべてみて、こんなことしてきたあんなことしてきた、良いこともしているかもしれませんけど、嫌なこともいろいろ思い出してしまう。

 

そういう自分をまるごと「俺は本当に自分が好きだ」と言えるのかどうか。なにか根本的な考え方の変化が必要なのかもしれない。と思い始めました。

 

俺はいろいろな自分、俺はこの時は良い自分だったんじゃないか、あるいは嫌な自分だったなという自分自身を思い返してみて、それをひとまず、全部自分の姿なんだと受け入れるところから始めました。根は実はいい奴なんじゃないかとか、いや俺は本質的にやっぱり冷酷なんじゃないかとか、どっちの自分が本当なのだろうと考えることをやめて、全部自分なんだと考えるところから始めました。

 

そして、どうしてそんなに一人の自分である僕が変わってしまうのか、ということを考えました。結局は対人関係の中で、相手次第、場所次第なんですね。親友としゃべっている時には、俺は非常にくつろいだりリラックスした自分になりますし、仕事の相手としゃべっている時にはシビアな顔で難しい話をしたりもします。腸煮えくり返るくらい嫌いな奴の前に出ると、やっぱりイライラしてしまいます。

 

とにかく、それぞれの自分はずいぶんと違うんですね。そして、自分のことを全体的に愛するということは非常に難しいかもしれませんが、実は、誰かといる時の自分は好きだ、ということは言えるのかもしれない。

 

あの野郎といるとなんか嫌な自分になってしまう。だけどあの人といる時の自分はまんざらでもない、結構好きだ、というのは実はそんなに難しいことではないのかもしれません。

 

恋愛について考えてみました。

ある2人の女性がいるとします。俺は、どっちもいいなと思ってるとします。一方の人とまずデートに行って、ご飯を一緒に食べると。すごく楽しくて、次から次へと面白い冗談とか言えて、向こうのリアクションもいい。自然と笑顔になって、気がついたらこんな時間だと慌てて終電に駆け込んで「いやあ、今日は良い一日だったな」というデートだったとします。

 

もう一方は好感を抱いてるんですけど、いざ実際にデートに行ってみるとあんまり面白いことも言えなくて、ちょっと油断してしまうとシーンとなってしまって、自分が冴えない人間になってるって感じがする。二軒目まで行こうかなと思ったんだけど、一軒目くらいで「じゃ、また」ってことでデートが終わってしまった。

 

どっちの女性ともう1回会いたいかといえば、当然ながら俺は前者の女性とまた会いたいと思います。それは相手が好きだからということもあるかもしれませんが、その人といる時の自分が好きだから、その自分に楽しさを感じて、その自分を生きることに生きがいを感じるからです。

 

「愛とは誰かのことを好きになることだ」

 

この定義自体はもちろん間違っていませんが、今僕が付け加えたいのは、愛とはむしろ

 

「他者のおかげで自分を愛することができるようになることだ」

 と、そういうふうに考えてみたいと思います。

 

あの人の前でなら自分は思いっきりリラックスして、素直になれて、いろんなことをさらけ出せる。他の人の前では決してできない。

 

不幸にして、人間の関係には終わりが来ることがあります。

喧嘩別れしてしまうこともあれば、死別してしまうこともあるかもしれません。

誰かを失ってしまう悲しみはもちろん、その人の声が聞けない、その人と抱擁できない、いろいろなことがあると思いますが、もう一方で、「その人の前でだけ生きられていた自分を、もう生きることができない」という寂しさがあるのではないでしょうか。

 

 

あんなに自由にいろんなことをしゃべれたのはあの人の前だけだった。あんなに素直になれたのはあの人の前だけだった。あんなに馬鹿なことをしてあんなにくだらないことをできたのはあの人の前だけだった。

 

その人がいなくなってしまって、自分はもう、好きだった自分を生きることができない。それが別れの悲しみなんじゃないでしょうか。

 

逆ももちろんあります。俺は誰かから「あなたのことを愛してます」と言われれば、有頂天になります。しかし、誰かから「あなたのおかげで自分のことを好きになれた」と告白されたなら、あるいは「他の誰といる時よりもあなたといる時の自分が好き」と告白されたなら、それはなにかもっと胸に迫ってくるものがある気がします。

 

自分の存在がそんなふうに他者の存在を肯定させているんだということには、なにか感動的な喜びがあります。人間はそんなふうに、好きな自分っていうのを一つ見つけるごとに、生きていくための足場というのができていくんでしょう。

 

僕たちはたくさんの人に囲まれて生きていると、その中の何十パーセントのたくさんの人に自分を愛されないと、なんだか生きていけないような気持ちになります。教室の中、会社の中。

 

しかし、好きな自分の数を数えていけば、そんなに何十個もいらないのかもしれません。2つや3つ、あの自分は結構好きだなという自分が自分の中にあれば、そこを足場にして生きていける。5つも6つもあればもう十分というぐらいかもしれません。教室の中に友達は3人しかいないと思うのか、3人も自分を好きにさせてくれる人がいると思うのか。これは考え方の違いです。

 

自分を愛するというのは、なにも鏡を見て「ああ、俺が大好きだ」ということではなくて、誰かのおかげで自分を愛する、他者を経由して自分のことを好きになれるということなのではないでしょうか。

 

おそらくそこが自分を愛するという入り口なんだと思っています。

 

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