Ryota’s diary -日々のあわ-

不定期ですが、これから考えたこと、チャレンジを受けたこと、びびったこと、嬉しかったことなどの日々の出来事を書いていきます

WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE

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自分が何度も何度も読み返す、バイブル的存在の本。辛くなるといつもここの箇所を読む。

 

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著者である佐渡島氏が子どものことで実際に体験したこと。一部を切り取っても伝わらないし、ここがこの本を書く著者の原動力になったのではないかと感じるし、なによりも自分はこの話が大好き。シェアします。

 

 

 

 

 

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自分も早熟だったが 、それ以上に長男は早熟で 、一人で黙々とたくさんの本を読んでいる。

 

頭の中には 、もう親にはうかがい知れない 、彼だけの世界がある 。

 

7歳になった頃から 、

「生きているのがつらい 」

「生まれてこないほうがよかった 」

そんな言葉を長男が口にするようになった 。

僕も中学 ・高校のときにはそんな気持ちになったが 、小学 1年生は早すぎる 。何があったのか 、どうしてそう思うのかを必死に聞く 。

 

それで 、僕や妻が 、どれだけ長男が生まれてきてうれしいかを話すけれども 、そのことは彼の孤独を癒さない 。

彼の孤独は 、早熟ゆえに社会と馴染まず 、自分の居場所がないと感じていることに起因している 。

しぶしぶ行っていた学校だけれど 、ある日とうとう 、行きたくないと本格的に主張し始めた 。よく聞くと 、クラスメイトに嫌なことをされたらしい 。安全 ・安心について考えていた僕は 、長男の心理的な安全 ・安心が整うまで 、好きなだけ休めばいいと考えた 。

一方 、妻は 、無理にでも学校へ行かせ続けることで 、長男が変化することを求めた 。

それで 、登校を嫌がる息子を 、半ば引きずりながら学校へ連れていくことになった 。そんな妻の努力が 1ヶ月くらい経った頃だろうか 。

 

妻から朝あった素敵な話を教えてもらった 。うなだれて 、体全体から行きたくないという気持ちが伝わる息子のところに 、一人の友達がやってきて 、 「一緒に行こうよ ! 」と手を引っぱってくれた 。すると 、もう一人友達がやってきて 、もう片方の手を引っぱり 、学校へと連れていってくれた 。重かった息子の足取りも 、すこし軽くなって 、学校へと行けた 。友達たちは 、息子の心の中にある葛藤を共有はしていない 。

孤独は 、孤独のままだ 。

息子はそれに自分で向き合い 、乗り越えていかなければならない 。

でも 、息子は一人じゃないのだ 。手を引いてくれる仲間がいるのだ 。これが 、コミュニティの力で 、人を生かす力だと思った 。

 

妻からその話を聞き 、僕の胸は熱くなった 。

自分という概念

自分って何だろう。

そう思うことは必ずある。

 

他人と比べ、自分が分からなくなって苦しい時期や自分を探すために一人旅することもあるはず。けど、それでは見つからない。

だって自分はそこにいるのだから。

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そして自分という概念が分からなければ愛など分かるはずがない。(愛とは「あなたが好き」とか「愛してる」とか「結婚したい」ということではないと自分は考えている)

 

そして、その結果、自殺問題まで行くことになる。(日本は年間3万人の自殺者)

 

人間は、生きていくためには、どうしても自分を肯定しなければならない。自分を愛せなくなれば、生きていくのが辛くなってしまう。しかし、自分を全面的に肯定する、まるごと愛するというのは、なかなかできない。よほどのナルシストじゃない限り、色々嫌なところが目についてしまう。

 

ただ、「誰かといる時の自分は好き」と言うことは、そんなに難しくない。その人の前での自分は自然になれる。明るくなれる。生きてて心地が良い。全部じゃなくても、少なくとも、その自分は愛せる。

 

人間関係も、環境も、自分の目に見えているものはひとつかもしれないけど、「自分」ですらひとつじゃない。世界はひとつじゃない。自分は世界にひとつだけの花じゃない。自分は、世界は、花サイドじゃなくて、花を見る目のほうだ。

 

「他人や環境のなかにいる自分をどう見るか」の視点と、「他人や環境をどう見て、自分にどう影響、反映させるか」のレンズとアンテナがあれば、「自分」はコントロール可能なのだ。

 

このような概念があれば自分を愛することは可能であり、生き方も定められる。

 

自分は、誰と過ごす時間を多く持つべきだろうか?誰と一緒にいる時の自分を、今の自分の基礎にすべきだろうか?

 

30代に入り改めて誰といるかを考えることが多くなった。

 

誰とどうつきあっているかで性格、個性にも変化があるはずだし、個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。この人といる自分、この環境でいる自分を愛せるという選択を日々の生活でしていくこと。

 

それが愛だと思う。

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「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」という有名な言葉も「隣にいる人と一緒にいる自分」を愛せば見方も目線も変化していくはず。

 

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教師とは

昔からお世話になっている有坂さんに

『この高校教師のドキュメンタリー番組があまりにあまりに良くて、見終わった後にふと川口くんが思い浮かんだので、すみません、勝手に送りつけます(笑)』

と久しぶりにメールが来たので朝から観たらもう…ドンピシャでした。

 

 

 

 

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「こどもの世界って狭いからこんな好きな自由にしてても働けるんや!と可能性を広げてあげたい」

 

 

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「学校は失敗から許される場所。その失敗をどう乗り越えるか練習する場所が学校」

 

など共感・共鳴部分だらけです。


こんな先生が増えていったら、日本の毎年の自殺者3万人なんかにはならないし、社会不適合者なんて言葉は消えていくはず。

 

自己肯定感が増して人生が楽しくなっていくに違いない。

 

 

まずは自分の心と自分がやってることを大切に丁寧に向き合って、今日も楽しく働きます。

もしまだ観てない方がいましたらURL貼っておくのでぜひー!!


https://tver.jp/episode/56831021

 

 

楽しさ

世の中は「正しさ」よりも「楽しさ」を持った人に強く惹かれるはずなのに、どうしても「正しさ」ばかりを考えるようになっている。何かが欠落していても「楽しさ」を持った人間が圧倒的に魅力的。

 

完璧な人間など存在せず、未熟なままでもありのままをさらけ出すことが魅力であり「楽しさ」の源泉。

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ブランディングとは

ブランディングとは

 

「意識的にこちらがしていることを相手の無意識の中に介在させること」

 

だとすると

指導者も選手に落とし込む部分って全く同じな気がします。

 

どこにこだわるのか

どこにもっていかせるのか

どこに目標があるのか

 

結局サッカーって社会の縮図なんですよね。

 

大きなピッチの中で、一つのチーム(社会)が、競い合うチームに対して、ルール(法律)という制約の中で「自由に」動くことを許されている。失敗をすることは前提で、その度に次へ、次へと進んで行かなければ、生き続けていくことは出来ない。

 

他人と協力してプレーをすること(生きていくこと)も出来るが、一人で生きていくことも出来る。そして、一人で生きていると思っている人間は、決して一人で生きてはいないのだ。

 

社会の常識(サッカーの原理原則)は存在するし、「こうやって生きた方が効率がいい」という指標(戦術戦略)は謳われるが、それはそれでしかない。目的(ゴール)を達成するためには、実際、何をしても良いのだけれど。

 

ややこしいのはファール(罪)は犯してはいけないが犯すこともできる。だから世の中(サッカー)には、私たちが生きている時間より、遥か、遥か前から、倫理や哲学が存在しているのだ。それは「〇〇=悪」と、ただただ受け入れることではない。

 

決定までの間に、つまり「=」にはプロセスが存在する。そのプロセスには思考や対話が含まれていなければならない。

 

例えば「社会を生きる人間(サッカーをする人間)」は、自分が何か本当に求めているものを掴もうとした時、罪を犯してもいいのだろうか?それが、誰か大切な人(試合を決定づけるゴール、それも人生を決めるかもしれない試合で…)を守るためだったら?あなたは、食べる物がなくて死が見えた時、お店から物を盗まないと、今、断言できるだろうか。

 

サッカーとは、そういうことだ。

 

罪を犯すことを正当化しているわけではないし、それをオススメしているわけでもない。それこそ、全人類が罪を犯さない世界が理想なのかもしれない。けど、それはサッカーの本質(社会の縮図)ではない。

 

だからこそ、指導者はブランディングしていくことが何よりも重要なんだろう。

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繋がるとは

自分は誰と「繋がる」ことを選んだのか。

そして誰と「繋がらない」ことを選んだのか。

 

意識してたとしても。

たとえそれが無意識でも。

 

その、ゆるい「つながり」を人は縁といっているが、本当は全て自分で選んでつくってきたものなのではないだろうか。

 

まるで布を織るように。

 

そんなこんなで年をとるのではなく、年を重ねたいと感じる今日この頃。

 

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