CGNTVに取材していただきました
恥ずかしいながら自分の人生観・シャロームスポーツセンター・スポーツミニストリーのことを話しています。
ネット放送もあるみたいなのでもしよかったらご覧になってください。
CGNTVの関係者の皆様、本当にありがとうございました!
イベントや仕事もそうですが、考え方や思想も含めています。
— 川口竜太@正しさより楽しさ (@_let_it_out) 2018年5月18日
《どう或るべきか》
社会に対して、自分の仲間に対して、文化構築に関して、そして自分が死んだ後に何を遺すのか。
想いを繋ぐ熱を燃やしつつ。
人と違うことは個性です。
— 川口竜太@正しさより楽しさ (@_let_it_out) 2018年11月9日
そもそも違うことが祝福なんです。
この世に誰一人として同じ人はいません。
東京で取材でした。
— 川口竜太@正しさより楽しさ (@_let_it_out) 2018年12月10日
なんか自分をフォーカスされるのは申し訳ないくらいなんですが…。
本当自分は欠けだらけの人間なのにこんなにも沢山の方々が支えてくださっている。だからこそこの機会に感謝し、日々前進していきたい。
変化とは実践の積み重ね
1月が終わる。
本当にいろんなことがあった。
このペースで行くと今年の12月はどんな風になっているのだろう。想像がつかない。
ただこのジェットコースターみたいな日々を楽しみながら人生を終えたいと思う今。
必ず成功すると信じているのでこの困難をブログにでも綴ろうと思う。あとで見返す時に笑えると信じて。(なので基本的に自分用のブログ)
1月とくに悩まされたのが「ギャップ」
このままでいいという考えとこれではだめだという考え。お互いに「正しさ」という剣を持って戦う。戦っても戦っても何の意味もない戦い。だってゴール地点が違うんだもん。
ってことで、もやもやしていたら昨年話題になったNewsPicksのキャッチコピー「さよなら、おっさん。」を思い出した。
本質である「凝り固まったルールや価値観」を柔らかくしていこうというメッセージに異論はない。けど、クリエイティブ感覚としての「さよなら、おっさん。」というフレーズはどうかなーって思っていましたが、(結局NewsPicksに課金させたいんでしょって思ってしまうから)今年の1月の出来事で自分の中でこのフレーズがビシッときた。
今のフットサルコートの運営の仕方を変えようと意見交換をしていても、話の焦点がズレ何故か目上に対して敬意を払いなさいって言われてもあなたが私に敬意を払いなさいって思ってしまう。なんでやねん。(このループを繰り返す)
「ひとは歳を重ねるにつれ、勝手にレベルが上がっていく」みたいな幻想が蔓延している気がするけど、年齢って「プレイ時間」でしかないし、レベルアップに必要なのは「経験値」だから、歳を重ねることそのものには何も価値はないっていうか、あんま年齢って意味ないっていうか、くだらないっていうか、
— プロ奢ラレヤー🍣 (@taichinakaj) 2019年1月24日
別に嫌われてもいいから、今の経営だと何がダメでどうしなちゃいけないということをきちんと受け入れてもらえないと本当に困るのに全く聞いてくれない。それは「あなたは今の仕組みの中で生きていけばいいのよ」って言われている気がしてマジ気持ち悪い。例えるなら携帯はiPhoneXなのに、アプリが何もないのと同じ。
こっちがInstagramやFB、Twitterのアプリを入れたいのにそれは意味がないって言われているのと同じ。
今の自分のいる環境は《評論家系 vs 実践者系》であり、NewsPicksのキャッチコピー「さよなら、おっさん。」の言いたいことは《実践者系評論家》ということ。
もっと簡単にいうと、やるかやらないかを決める時に
「しっかりと社長や仲間と議論して決めるか」
「とにかくやる」
の2択ではなく、「やりながら議論する」ということ。このやりながらが出来ないのが今の自分のもどかしさなんだ。
ただ、1月に何度も何度もぶつかり「やりながら議論が出来ない」状況の自分には一つの結論が生まれた。
信用度が少ないということ。
相手からしたら、川口くんはチャレンジするやり方自体を深く考えずにいる人。闇雲に走ってしまって遠回りどころか逆走してしまう人。
という認識があるのかもしれない。
最高のパフォーマンスを出すには、まず最適なやり方を調べ尽くして、そのやり方に確信を持たなければならない。その上で圧倒的な量をそこに注ぎ込むことで結果を出す。
ただ、考えずにまずやってみるよりも、このやり方で成功できるはずだという確信をもって120%の力であたってみなければ、それが戦略の誤りなのか努力が足りていないのかの原因があやふやになってしまう。
けど、自分はその自信がある。
けど、相手には理解されない。
このギャップこそがモヤモヤの原因なのか。と腑に落ちたので、2月からは自分の思いをきちんと言語化して相手に伝える。しかも熱量はもちろん、相手が納得するような言葉のチョイスを使って伝える。
やるからには、ひとつひとつの仕事に自分の全精力を出し切る。でもそうするとたくさんはできないから、必然的にやるべきことは絞る必要がある。だからこそやるべきことを絞り、何かにフォーカスするために『考える』というフェーズが重要。
だからやるべきことを仲間に分業させる。ビジョンやミッションを仲間と再確認し、全力で駆け抜ける。
*新メンバー2月からよろしくお願いします!
とりあえずやってみようではなく、考え抜いた上でこれ以上はやってみないとわからないという段階まできたタイミングで、選択肢と指標を設定して計画的に『やってみる』こと。
それが分かった1月でした。ちゃんちゃん。
違いを受け入れ、前進するには多少時間がかかる。けど、そこの味わいを噛み締めて次に進まないと周りを「巻き込めなくなる」
— 川口竜太@正しさより楽しさ (@_let_it_out) 2019年1月24日
方法論としては差別化を図り成長することも可能だけど、やっぱりあんまり好きくないんだよなぁ。
変化できる人
あけましておめでとうございます。
あっと言う間に年末を迎え、あっと言う間に2019年がスタートしました。
年末年始は特にどこにも行くことなくゆっくりと時間を過ごしました。大好きなサッカーをひたすら観て、溜まっていた本を爆読みするという贅沢な時間。
どこかに行くのではなく、誰とも会うことなく過ごす年末年始。30歳にして初めてのことでした。だからこそ、2019年はどう頑張っていくのか ということをゆっくりと深く考えていました。
2018年はサッカーコーチという立場から変化して「どうサッカーと生きるのか」という立ち位置になった1年だったと思います。
文化作り、居場所作り、ビジネスモデル作り…など初めて経験することばかりでいつも学びの時。そこにはコーチ時代に経験していた公式戦の勝利よりも楽しい「喜び」がありました。
あぁ変わることって楽しい!
自分自身がその変化を楽しんでいました。
『常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。』
と言っています。
2019年、30歳ですが常に常識を疑いこれまで以上にチャレンジして変化していく年にしたいと思います。過去にとらわれず、未来を恐れずに前進していきます。
PS 年末に観た「あいみょん」のコメントが今でも心に響いています。この人、魅力的だなぁ。
おせっかいは救い
プロフェッショナル 仕事の流儀 -傷ついた親子に幸せを~小児神経科医・友田明美 - を観て改めて感じることが多々あった。
上の画像見てわかると通り、親だけではなく指導者の暴言で選手の主体性奪ってんだぞ、ボケ。
プロフェッショナル、おもしろかった。親が変われば、子は変わる。以前読んだ本と同じような印象。神経科、精神科はやはり興味深い。
— でらり〜ん (@derayu91) 2018年11月5日
友田さんの言葉から出てくる自己肯定感と安心感。そして救いたいと想う熱量。側から見たらおせっかい。けど、そのおせっかいこそが人を救うのだ。
友田先生すごいわ。正しいおせっかいって必要。#プロフェッショナル
— ママじゃないやつ (@sack_marc) 2018年11月5日
#プロフェッショナル仕事の流儀 #NHK
— Saitoh Masaya (@MS3110) 2018年11月5日
友田先生の「おせっかい」ぶりは凄まじい。
だが、このくらいグイグイゴリゴリやらないと、なかなか人は動かない。人の考えを変えようとするなら尚更。
凄いな、この友田明美先生。こんなしつこくおせっかいしてくれる熱い先生いないよ。こんなハッキリ意見言ったり、親とぶつかったりなんてしないよね。#プロフェッショナル
— yoko (@ohisamania) 2018年11月5日
プロフェッショナル、おもしろかった。親が変われば、子は変わる。以前読んだ本と同じような印象。神経科、精神科はやはり興味深い。
— でらり〜ん (@derayu91) 2018年11月5日
#プロフェッショナル仕事の流儀 を見ました。友田明美先生は、ドロシー・ロー・ノルトのような素敵な人ですね。
— ねおまる! (@ruam0ne) 2018年11月5日
友田先生の「関わったら身内」という言葉は僕の胸に突き刺さりました。
そっかー おせっかいって、繰り返せばいつか相手に届くんだね。
自分の黒歴史と後悔しなくてもいいんだ。(^^)
そうそう昨日見た・・・#プロフェッショナル仕事の流儀
— KuwabaraSuzuka (@KuwabaraSuzuka) 2018年11月6日
小児神経科医の友田先生という方でしたが興味深かった。
「親が変われば、子も変わる」
「虐待されたり、ショッキングな場面を目にすると脳が委縮する」
「でも傷ついた脳は、接し方を変えることで回復する」などなど。
むむ…(日々を反省)
最近自分は「好きな人と生きる」ということを考える。
かつて、俺はなんでも自分ひとりの力でやることをよしとするタイプの人間だった。
なので「ひとりで生きていく」という感じ。
その頃は目つきが今よりキツかった。
精神的な余裕もなかった。
それがサッカーの指導にも、教師をしていた時は教育の指導でも、自分が正しい。と思い込んでいた。これはいわゆる同調圧力ってやつだ。選手や子供達はサッカーも授業も楽しんでやる人はおそらくいなかっただろうなぁ。
ただいろいろなことにぶつかり、悔しながら降伏をして「これは自分には無理です!」とお手上げ状態を晒したら、全方位から助け舟が差し出された。他者の意見を受け入れることで心の深みが生まれたのだ。
これの深みこそが恵みってやつなのかもしれない。
だからこそ思うのが
共に生きる。
ということ。
もちろん相手の全部を受け入れられるわけではないし、傷つくこともあるけど、間違いなく得るもののほうが多い。
お互いに理解していき、同じ方向に向かっていくこと。
難しいかもしれないけど、自分を全部さらけ出すことで受け入れる幅が増えると思う。
自分を封印することは、自分に対する虐待になる。自分の人生を生きるってことは「このことなかったこと」にはできないのだ。
嫌われても構わない。
そのかわり俺のことを好む人や俺は好む人は全員引き連れて生きる。
おせっかいしまくる。
同じ熱量で人生を共にしたい。
その方が祝福が増していく。
違うことは祝福だから。
「スポーツを通して社会性を育む」は本当?
スポーツは教育ではありません。
スポーツは遊びです。楽しむものです。
挨拶、上下関係、シャキッとする、言葉遣いといったものはスポーツをしていないと獲得できないものなのでしょうか。
スポーツをしていなくても、当然のように挨拶はできるし、最低限の言葉遣い、TPOもわきまえることはできると思います。
挨拶や言葉遣いはある意味で家庭での躾を通じて、それから子どもたちの発育発達の過程で自然と身に付けていくものです。
だからこそ、「スポーツを通して挨拶を、言葉遣いを」という言葉、発想自体が恩着せがましいわけです。
みんな最初は好きで始めたサッカー、楽しいはずのスポーツの時間が次第にストレスを抱えることになってはいけない。
なぜか日本のスポーツに蔓延る「スポーツは人間教育の手段」という概念を取っ払い、「気晴らしをする、遊び、楽しむ」といったスポーツの語源に基づく本来の意味・価値を再現していきたい。
スポーツを始める動機は色々ですが、選手たちはサッカーが楽しいから、大好きだからやっている。
それが楽しくなくなる。
嫌いになる。
塾がある。
などの理由でサッカーを辞める選手が出ています。それは何らかのストレスが子どもたちにかかってきているからで、選手にサッカーを続けて欲しいと思うのであれば、彼らを楽しませる、好きなサッカーをさらに大好きにさせる大人の責任、役割があると思うわけです。
やはり正しさより楽しさを追求し、「強制」のスポーツから共に手を取り合い楽しむ「共生」へ。
そんなスタンスでサッカークラブ運営、居場所創りを目指していきます。
過去は変わらない。けど、過去への見方は変わる。
自分の人生を生きるとは新しく生きるということ。
生まれ変わるということ。
ただそのためには過去を縛る自分自身への嫌悪感や罪悪感を消さないといけない。
過去に
・あんなことをしてしまった自分
・こんなことをしてしまった自分
・そんなことをしてしまった自分
たくさんの自分がある。
こんなたくさんの自分を帳消しになんかできないはず。
うん、俺もそうです。
過去に悔やんだりすることも多々ある。
だけど、過去の見方を変えることは出来るはず。それは今が楽しんで幸せていれば可能だ。
あの時は〇〇だったけど、〇〇があるから今がある。というように。
生まれ変わるということは過去を帳消しではなくて、どう生きるかという方向転換で見方が変わるのだ。
自分の人生を生きよう。
笑って進もう。
道なき未知へ。
価値観が居場所を決める
「フットボールと出会ってよかったこと」は無限にあるけど、あえてひとつだけを挙げるなら、『自分の価値観ができたこと』だなと思う。
今家族のように付き合っている人たちはみんなフットボールがきっかけになって仲良くなった人たち。
そして私が幸運だったのは、自分が仕事としてサッカーやフットサルに携われることになったことと、素敵な人たちに出会って仲良くなった時期が同じだったということ。
その仲間達を通して自分はそのままでいいんだという、自己肯定感を得たんだ。
けど、その自己肯定感の話を友達としていたら『カワは自己肯定感を得たっていうより、忘れていた自己肯定感を思い出したって感じだよね』と言われて、『思い出した』という表現はたしかにぴったりだなと思った。
フットボールを通して「自由」とは何かを感じ、その答えを求めるべく「居場所」という考えに至ってある。
なぜ自分は自己肯定感を思い出したのか。
それは出会う人が生き生きしていたから。他人の目など気にせず自分の人生を生きていた。
とてもカッコいいと思ったし、自分もそうなりたいと思い今に至る。
正直、世間体を捨てれば、悩みの九割は消える。
大人になるということは、子どもの部分を消し去って、周囲に合わせて無難に生きることじゃない。真逆だ。小さな自分が訴える「これをやりたい」と願うことを、実現する力を養うことだ。
そもそも人といると疲れるんじゃなくて、我慢すると疲れるだけ。人が嫌いだって結論を出すのはダメ。それはただ、我慢することが嫌いなだけ。
愛想笑いが嫌いなだけ。
我慢させやがってとか愚痴るのではなく、ただ、我慢をしなきゃいいだけ。
言いたいことを言えばいいだけ。言えない場所からは離れればいいだけ。
そこが自分の居場所になるはず。フットボールを通してそんな居場所を創り続けたい。
そんな価値観で生きている。
なんで俺はそんなこと言ってるのか。
それは日本には毎年自殺者が3万人&鬱病患者100万人という事実があるから。今も。
社会不適合者という言葉があるけれど、そんな社会に適応したら、おかしくならないほうがおかしいと思う。自分を責め、創造性に蓋をした瞬間に人生は詰む。
詰む人生はやめよう。
自分の人生楽しく生きよう。
大丈夫、そのままでいいんだよ。
楽しもう!人の目を気にせず。
一歩踏み出そう。